山と谷の幅は同じで、高さと深さもほぼ同じ。
だから失われた10年は、その後の10年で取り戻せる。
人間は「反省する動物」だから、と考えていた。
ところが、どうもそうではないらしい。
人間は「反省する動物」どころか、人間ほど過去の経験、歴史に学ばない動物はいないようだ。
一攫千金を夢見たバブルの亡者は不動産、株、ITと分野こそ変わるものの、何度も消えては現れる。
あれだけ批判を浴びたアメリカ金融界の給与は、リーマンショック後1年あまりで再び巨額報酬が復活している。彼らはなんて「強欲」なんだろう。それとも国に関係なく人間が強欲なのか。
当初、アメリカとヨーロッパの一部ではびこっていた強欲資本主義(本質はグローバル資本主義)は、80年代以降、日本でも急激に蔓延し、気が付いたらすっかり日本社会と日本人を変えていた。
戦後一貫してアメリカしか向かず、アメリカの後ばかり追いかけ続け、「忠実なポチ」とまで揶揄された日本だから予想されたことではあったが。
それにしてもこの変わり様は何だろう。
かつて日本人が広く持っていた「助け合い」「先義後利」といった思想は「個人的利益優先」「市場万能主義」に置き換えられ、これが同じ日本人かと思うほど変わってしまった。
それでもまだ、10年前まで私は信じていた。
日本人の中に助け合いの精神や社会的公平、社会を大事にする考え方があると。
だからこそ「リエゾン九州」を起ち上げた時、give & Takeをさらに1歩進めた「Give & Give」の精神を中心に据えたのだった。
それがどうだ。いまでは誰もが「目先の自分の利益」しか考えていないように見える。
「理念なんかクソ食らえ!」「黒猫でも白猫でもネズミを捕る猫はいい猫だ」とばかりに自分の儲けのことばかりを考えている。
「金を儲けることがそんなに悪いことですか」と開き直った男もいた。
そこまではっきり言わないまでも、似たような男は多かれ少なかれ身の回りにもいる。
金を儲けること自体が悪いのではない。
不正な手段で儲けること、自分だけが「不当に」儲けることが悪いのだ。
かつての日本にはこんな言葉があった。
「金は天下の回りもの」
そう、金は回って初めて社会の役に立つ。
回さずに自分の所にだけ集め、貯めるから腐るのだ。
腐った金は異臭がする。
その異臭で知らず知らずのうちに自分の精神(こころ)も頭も蝕まれていく。
そのことに彼らは気が付いていない。
アメリカではオバマ大統領が今月14日、金融機関大手に「金融危機責任料」という実質特別税を課すことにした。
今回の金融危機が「銀行など金融機関の無責任な行動によって引き起こされた」とし、その責任を取れと言っている。
「高額ボーナスを引き下げて、金融救済にかかった費用を払ってはどうか」というオバマ大統領の言葉からも分かるように、背景に早くも復活した高額報酬への拒否感、嫌悪感があるのは間違いない。
混沌とした時代にこそ理念、哲学が要求される。
理念、哲学なき経営は金儲けのための金儲けにしか過ぎない。
世の中には金の臭いを敏感に嗅ぎつけ、金のある方に舵を切るのが上手な人間もいる。
だが、本当に黒猫でも白猫でもネズミさえ捕ればいい猫なのか。
資本主義は本質的にこうした危険性を孕んでいる。
だからこそ一定の規制が必要になる。
それはキリスト教的宗教観からくる寄付、慈善行為であったり、日本的な「金は天下の回りもの」とか「先義後利」という考え方であったりするかもしれないが。
実は1昨年のリーマンショック後の不況で少し期待したことがあった。
もしかすると、これを契機に日本人の中に「助け合い」「先義後利」の考え方が戻るのではないか、と。
それは阪神淡路大震災を契機に日本人の中に助け合いの精神が「ボランティア」という言葉と形で復活したように、今回の不況はアメリカ型の市場万能主義と決別する契機になるのではないかと期待したのだ。
しかし、その期待は外れた。
失われた10年は不連続の連続ではなく、断絶の10年だった。
世界は本当に理念を失ったのか。
我々は理念を失ったまま生きていくのか。
本当にネズミさえ捕れば黒猫でも白猫でもいいのだろうか。
今後、そのことを少し考えてみたい。
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